101周年記念
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した通り、生田泰宏は日本国内の大学を卒業した後、アメリカへ渡航しミネソタ州のセントトーマス大学で留学を経験した。この海外経験は彼のグローバル視野を形成させたのである。これまで、生田泰宏は働きながら日本の国内市場と海外市場の状況を把握しつつ、生田産機工業のグローバルでの戦略的布石をずっと考えてきたのである。具体的に、生田泰宏が踏み出したグローバル化戦略の最初の一手は「世界の工場である中国へ進出しよう」という社長ビジョンであった。ところが新社長に対してようやくほんの少しの好感をもつようになった従業員からすれば、この「無知愚昧」な社長ビジョンは「第二の暴走だ」と、またも彼らを仰天させていたのである。社員たちの中国進出に対して反対する理由は三つあった。一つはリスクである。確かに中国は一九七八年から改革開放政策を打ち出し、かつての計画経済体制を打破しながら、自由競争の市場メカニズムを導入してきており、二〇〇一年にもWTOに加盟した。しかし市場の競争環境はまだまだ整っておらず、多くの法律や政策も整備されていなかった。このようなリスクの高く、不確定要素の多い中国市場で、トヨタやパナソニックなどのような巨大企業でさえ、きわめて慎重に中国進出を行っている。二つは競争の激しさである。中国市場は確かに規模が大きく、成長スピードも速く、これからの成長性も巨大だと言えるが、世界諸国のほとんどの列強大手企業はこの巨大市場に進出しており、競争の熾烈さも予想をはるかに超えるほどである。それまでこの巨大市場を狙って、多くの日本企業も中国に進出してきたが、熾烈な市場競争に負けてしまい、毎年中国から撤退する企業、その数も少なくない。三つは生田産機工業の現実である。確かに新社長生田泰宏のリーダーシップのもとで、生田産機工業は両面々切削装置のカッター事業をうまく遂行できたが、五〇人未満の町工場のような無名の中小企業であることには変わりがない。それまで日本から多くの中小企業は中国進出に乗り出していたが、中国現地でうまく展開できている企業はごくわずかで、大失敗して元も子も失うという前車の轍は数多くあった。このような厳しい現実のなかで、中国進出は生田産機工業にとってかなり無謀だと、社員たちは社長の暴走に対して猛烈に反対し、阻止しようとした。しかし生田産機工業のグローバル布石を熟考した生田泰宏は今回も譲らず、全社員に対して懸命に自分の考えを説明し続けた。「反対の声は本当に強かったです。とくに会社で長く勤めてきた方々から猛反発を受けていました。彼らの気持ちは理解できますよ。長年一緒にやってきた生田産機工業の運命と関わることですから。でもそれで私が負けるわけにもいけませんでしたので説得し続けていました。『これまでの新製品開発にもみんなで努力した結果、成功したのではないか。中国市場を調べてきた。我々の製品と技術には自信を持っている』、『今回の中国進出も無謀だと言われているが、日本の市場は限られていて必ず飽和してくる。今我々は競合他社に比べて少し優位性を持っているかもしれないが、すぐにも追い越されるわけだからこのままだと我々は競争力を失う。そのときになってから危機を対応しようとしても手遅れになる。中国市場を開拓し、機先を制したい。リスクはあって当然。ましてやリスクが大きいからこそ、チャンスがあるのではないか』と」このように、繰り返して説得していく中、ある日会社の経営会議でようやく一人の最古参の役員が立ち上がり、発言したという。「『わかった。ここまで言うなら、支持しよう。これまで032

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