101周年記念
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ところが、「一年間をかけて大手にも負けないカッターでは、この難題をどのように攻略したのか。筆者の疑問リンターとインクのようなものです。装置本体は品質が良いですのでなかなか壊れたり新しいものに入れ替えたりしないですから弊社に入ってくる利益は限定的なものですが、カッターは常に交換したり手入れたりする必要がありますので、利益は継続的に入ってくるものですからかなり大きいです。しかしお客さんは最初、弊社からセットで両面々切削装置とカッターを購入されますが、消耗品であるカッターが他社の製品であることから、次からは弊社を通らず直接にカッターの製造できる大手メーカーからカッターを購入するようになってしまいます。私はいつもこの問題に疑問を持ち続け、不二越社、三菱マテリアル社などの大手企業を訪問して交渉しようとよく奔走していましたが、相手すらされませんでした。本当に計り知れないほどの喧嘩をしてきました。でもやはり自分たちは生産できないですから、セットで製品を納品するのであれば自分たちも工具メーカーに依存してしまっていました。ですから弊社にとっては、カッターを自社製にするしかありませんでした」の開発を遂行しよう!」と生田泰宏は社長命令を発表すると、社員たちの反応は冷ややかなものであった。先代社長の急逝と若き後継者の社長就任によって、社内の心は依然として散乱していたのである。「最初は本当に困っていました。製品開発に関する考えをいくら説明しても皆さんは黙って聞いているだけでした。無反応でした。『三代目が暴走し始めたぞ!』という声もちらっと聞きました。どうすれば良いのか、打つ手がなくて本当に困っていました。」に生田泰宏はこう話した。「私の話に耳を傾けてくれる人はほとんどいませんでした。正直、当時(会社の:筆者注)居心地は最悪でした。このままだと会社は危ない。どうすれば良いかなと悩んでいるうちに、戦術を変えようと思いました。弟二人が会社で技術者として働いていますので、まず弟の理解をもらおうと、時間を作って弟たちに私の考えと苦悩を話しました。最終的に弟たちは理解してくれて、役員会で承認を得てカッターの自社開発製造に舵を切ることになりました。彼らの懸命な説得と後押しにより、社員たちは次第にカッターの開発に取り組んでくれるようになりました。本当に良かったです」努力は裏切らない。結局は予定よりやや長い一年以上の時間がかかったが、社員の懸命な努力により、生田産機工業は独自技術のカッター開発に成功したのである。自社製の両面々切削装置に自社製のカッターを組み合わせたことにより面削技術で重要な表面品質要素となる装置本体、カッター、研削盤の三つの主要テクノロジーを独自技術で実現でき、生田産機工業の両面々切削装置はさらに高い技術力評価を得る製品群となった。さらに、カッター事業も会社にもたらしたシナジー効果と利益が次第に現れてきた。こうして生田泰宏は初戦で白星を飾った。会社の経営状況も好転し始め、生田産機工業の従業員の生田泰宏新社長に対する態度も変わり始め、「なかなかやる」と認めるようになった。しかし、初戦白星の生田泰宏は、現状に満足せず、イノベーションの足を止めることはなかった。彼は勢いに乗り、すぐにもイノベーション経営の二つ目の内容、つまり生田産機工業のグローバル化へ踏み切ったのである。前述【図2】 1999年父の突然の逝去により、生田泰宏は準備の整っていない中で急遽後継ぎをし、生田産機工業の3代目社長となった。社長を引き継いだ泰宏は、死ぬ覚悟で臨むと決心した。031

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