101周年記念
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ところが、筆者に上記の話をしたところ、二〇一五年に癌の病魔にも勝った彼は涙をこらえ切れなかった。生田泰宏の母親は息子の株の課題を年内に解決して一〇日を経た、明くる年二〇〇〇年一月一〇日に脳内出血のため急逝したのである。落ち着きを取り戻すと、生田泰宏は筆者に対して母親についてこう述べた。「母は本当にすごい人でした。彼女は多くの苦労を経験しました。私たち従業員も含め全員の面倒をみながら、工場で働く父の手伝いもしていました。さらには亡くなる直前まで私のために事業承継の難題も解決してくれました。命の最後まで使命を果たし続けていました」イノベーションとは、経済活動のなかで生産手段や資源、労働力などをそれまでとは異なる仕方で新結合することであると、オーストラリア出身の経済学者であるシュンペーターによって定義された。日本では一九五八年の『経済白書』において「技術革新」と翻訳紹介され、これまで定着してきたが、近年、「技術」に限定しすぎたという批判が強まり、二〇〇七年の『経済白書』においては、シュンペーターの定義に立ち返り、イノベーションを「新しいビジネスモデルの開拓なども含む一般的な概念」としている。イノベーション経営とは、シュンペーターが定義したイノベーションの創出のための戦略的マネジメントである。前述した通り、生田産機工業の三代目現社長の生田泰宏はアメリカ留学から帰国後、いったん京都の株式会社イシダに入社して働き、経験をある程度積んでから一九八九年に家業に入り生田産機工業に入社した。一九九九年、父の急逝で準備も整っていない中で、慌しく家業を継ぎ、三代目社長となった。そして、受け継いだ当時は決して順調ではなかった。「父の突然の他界からの衝撃はもちろん大変でしたが、もっと事業承継が大変だと感じたのは、会社の従業員が心から私を信じていないことでした。これによって従業員の心もばらばらで、みんな不安を抱えていました。よく考えてみると信じてくれないことは、簡単に理解できます。三八歳で決して若いとは言えませんでしたが、一九八九年に会社に入社して、一〇年しか社内経験していなくて、それに加えて特別な能力を持っているわけでもなく、それまでに会社の成長に大きな貢献をしたわけでもなかった。このような人がいきなり社長になったのですから、誰でも信用しないのはむしろ当たり前ですね。それからもう一つ、実際に当時、会社の経営は悪かったです。私が社長になった初年度に一億を超える赤字も出していました。『富は三代続かず』という言い方があるように、三代目である私のプレッシャーは本当に大きいものでした」字とも向き合い、生田泰宏は当時の状況を分析し、死ぬ覚悟でイノベーション経営を決心したという。社内の散乱した心と向き合いながら、帳簿上の巨額の赤「会社はいろんな面で変えていかなければなりませんでした。自らイノベーション経営を進んでいかなくては本当に倒産してしまうという状況でした。ところがイノベーションにはリスクが大きいですから失敗してしまうと家業はすぐに傾いでしまいますから『自殺』のようなものになってしまいます。三代目が家業をダメにするとよく言われていますが、私はちょうど生田産機工業の三代目です。失敗を恐れて何もしないのでは自死してしまうと考え、腹をくくりました。何もしないで負けるより会社の技術力や社員の力を信じて勝負にでる」このような心構えで、生田泰宏はイノベーション経営に乗り出したのである。生田泰宏のイノベーション経営には主に二つの内容があった。一つは新しい製品と技術のイノベーションであった。この内容について生田泰宏はこう語る。「例えば弊社の主力製品の両面々切削装置について、この装置を利用するときには本体とカッター、そして研削盤とこの三つが揃っていなければなりません。しかし当時弊社はカッターの製造ができませんでした。ですから私たちはいつもまず不二越社や三菱マテリアル社などの大手企業からカッターを購入して我々の装置本体にセッティングしてから、お客さんに納品していました。実際、装置本体は長く使用できますが、カッターは利用頻度に応じて定期的に手入れや新しいものの付け替えが必要です。つまり、プ四、三代目現社長のイノベーション経営 030

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