101周年記念
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田鉄工所で父親の生田捨吉と一緒に働くことにした。一九七四年、生田宗宏は二代目社長に就任してから、先代の生田捨吉と同様にイノベーションを積極的に取り込んだ。一九七八年、生田産機工業の両面面切削装置と自動溶接装置が韓国への輸出に成功し、海外市場進出への第一歩を踏み出した。その後、生田宗宏のリーダーシップのもとで、生田産機工業は優れた機械製品をもって香港、台湾、イランなど海外市場へ次々と進出し、一九九〇年代にはドイツの主力伸銅会社にも面削装置を納入でき、ヨーロッパ市場でもデビューした。一九八五年、生田産機工業は一、五〇〇㎜の大型両面々切削装置の開発に成功し、切削作業効率を大幅に上げた。さらに、一九九一年、生田産機工業はアルカリ脱脂洗浄ラインを開発し、一九九五年に開発に成功した。社員数では一〇〇人に達しない少人数の中小企業ではあるが、生田産機工業のイノベーション力と技術力は人を驚かせるものである。これに対し、筆者のインタビューで、三代目社長の生田泰宏は以下のように述べている。「父は中学校しか出ていなかったが、一五歳から祖父と一緒に工場で働いたこと、とくにあの第二次世界大戦の苦難の生活を送ったことで、柔軟に知恵を搾り出しながら方法を考えつくし、危機的局面を克服しました。このプロセスの中から父はイノベーションの重要性を学んだと言えるでしょう。これは父だけでなく、今の会社も同じで、弊社のほとんどの従業員はモノづくりが好きな産業機械の設計もWindows NTをベースとしたCNCカッター研削盤の生田泰宏の話の通り、現在の生田産機工業の現場には、ところが生田産機工業の創業八〇周年となる一九九九年伴いながらも、生田産機工業の三代目社長に就任した。まさに突如やってきた事業承継であった。しかしそのとき、生田泰宏は確かに会社の三代目社長に就任したのだが、二代目から三代目への受け継ぎは完璧にできたとは言えなかった。なぜなら、亡き二代目社長生田宗宏の弟である生田泰宏の叔父は、生田産機工業の株を相当数所有していたからであった。「叔父さんは当時、会社を退職していましたが、この問題は解決されない限り、会社の事業承継ができたとは言えなかったのです。けれど自分から言い出すことはなかなかできませんでした」と、生田泰宏はその当時の心境を筆者に語った。最終的にこの問題を解決したのは、生田泰宏の母親の生田富子であった。「母は事理明白の人でした。今でもはっきりと覚えていますが、父が亡くなった六か月余り後の一九九九年の一二月三〇日の夜、もうすぐお正月でした。母は小切手をカバンに入れて用意し、私を連れて叔父さんの自宅へ向かいました。あいさつを終えるとすぐに、母は単刀直入に話を持ち出しました。亡くなった前社長に免じて所持しているすべての株を私に引き渡すようにと懇願してくれました。おそらく叔父さんも亡くなった父のことを想っていたのでしょう。あまり躊躇せず、すぐに母の要求を受け入れて、書類に印鑑を押してくれました……」製造エンジニアであり、弊社の規模は確かに小さいが、職人魂を持った塊であるとも言えます。…(中略)…父の弟である私の叔父さんは卓越した機械設計のエンジニアであり、職人でした。叔父さんは父より四つ年下で、生まれた時に確かに家業は厳しい環境でしたが、祖父の勧めで大学まで進学し工学科で機械設計を学ぶことができました。このようにして、卒業後はすぐに家業に入り、技術面と製品研究開発の仕事を叔父さんが担当していました…(中略)…もちろん、当時ほかの職人も、学歴で言うと低いかもしれませんが、父とともに歩み、さらには祖父の世代からともに歩んできたのだから、実践経験上では彼らも一流の職人でした」かつて一代目と二代目社長とともに働いてきた職人がいまだに健在である。一番年配の方は七五歳を超えるという高齢ではあるが、依然として製造の第一線で活躍し、主な仕事はOJTをつうじて弟子の育成であり、生涯心血を注いで身につけた経験や技術のすべてを次世代に教え込んでいる。の六月四日、生田産機工業の二代目社長生田宗宏は急病により突然逝去した。享年六九歳であった。身体はいつも健康であった二代目社長の突然の逝去により、生田家と生田産機工業は計り知れない空前の衝撃を受けた。しかし家には大黒柱が必要であり、会社には社長がいなければならない。会社をなるべく早く正常な運営に戻すために、二代目社長生田宗宏の長男である生田泰宏は父親を失った苦痛を029

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