101周年記念
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め、アジアの国々に災難をもたらしただけでなく、日本国内の国民の生活にも大きな打撃を与え、苦しめていたことは言うまでもない。全面戦争が始まると、日本政府はすべての戦略物資となるものに対して厳格な戦時統制を行った。生田鉄工所もこれを免れることがなく、一九三五年に日本政府の強要を受け会社組織を改組し、会社名も「京阪機工株式会社」へ変更され、主要業務も軍隊向けの軍需油送ポンプの製造と変更されたのである。吉の不満は少なくなかったが、理不尽な政府の統制下ではどうすることもできず、ただ黙々と耐え、内心では絶えずにこの戦争が早く終るよう祈っていた。やがて一〇年後の一九四五年、日本政府は無条件降伏を受入れ、第二次世界大戦が終わった。終戦に伴い京阪機工株式会社も解散が宣告されるに至った。一〇年の苦しい忍耐の末、生田捨吉は会社の所有権を取り戻し、企業名も以前の生田鉄工所へ戻した。男・生田宗宏(一九三〇〜一九九九年、生田産機工業二代目代表取締役)、そして社員たちとともに新しい事業へ方向転換を狙い、さまざまな努力と試みを行った。一九五〇年、生田捨吉は伸銅機械の技師であった寺田正春(後に生田産機工業の会長)と知遇を得て、生田鉄工所は伸銅設備機械の製造に着手し、さらに同年、銅水洗粉砕選別機を開発し、実用新案特許も取得した。社員との努力により、一九五三年生田鉄工所は町工場から現代的企業へ脱皮でき、事業転換に成功した。会社名も正式に「生田産機工業株式会社」我が子のような会社が軍治統制されたのだから、生田捨戦後混乱期の苦境を乗り越えるため、生田捨吉とその長へ改名し、生田捨吉は新しい会社の初代社長に就任した。生田捨吉と生田宗宏のリーダーシップのもとで、危機を乗り越え、新しい姿に転換した生田産機工業は、長年に渡って蓄積した機械製造に関する豊富な経験を生かし、絶えず努力を重ねることにより、着々と新製品と新技術の研究開発を進めていた。一九九五年、生田産機工業は日本初の黄銅板面削装置の開発に成功し、日本の伸銅製品加工製造業の飛躍的な品質向上に大きな貢献を成し遂げた。一九六〇年、生田産機工業は黄銅棒電流焼鈍矯正機の開発に成功し、実用新案特許を取得した。さらに一九七〇年、生田産機工業は両面々切削装置を開発し、大々的に面削装置の効率を上げ、伸銅条板の生産の歩留まり率を上げることに成功した。一九七四年、生田鉄工所とその後の生田産機工業に生涯を注いだ創業者生田捨吉が病気により逝去し、享年七五歳であった。初代社長の生田捨吉の逝去後、長男の生田宗宏が父の跡を継ぎ、生田産機工業の二代目社長となった。生田産機工業二代目社長の生田宗宏は、現社長の生田泰宏の父親であり、第二次世界大戦前の一九三〇年に京都で生まれた。前記で述べたように、一九三五年、生田宗宏が六歳のとき、日本政府は生田家が経営していた生田鉄工所を強制的に統制した。生田宗宏は戦時中の混乱と不安とともに幼少期の日々を送っていた。終戦後、生田鉄工所を建て直し、家族を支えるために、一五歳の生田宗宏は中学校を卒業した後に家業へ入り、生三、突如やってきた事業承継『求人の栞』【図1】生田産機工業創業者生田捨吉(右4)と生田家一族028

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