101周年記念
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だった社長の死により、今は不安しかないと思う。ただ、私は皆さんの協力無くして、やっていけません。と述べて涙をこらえ、深々と頭を下げるしかありませんでした。私にとっても、社員にとっても、まさかの極み。悲しみと不安、どん底の社長就任宣言でした。しかし、悲しみに暮れる時間、不安を抱える間はなく、次から次にしなければならないことが迫ってきます。社長交代の手続きと共に、葬儀の手配を進めることが初仕事となりました。社内外での、あまりにも付き合いの幅が広く人望を集めた父だったので、まず密葬として近しい方々、地元のモラロジー関係の方々を中心に自宅葬で済ませ、社内会議で社葬を二週間後の六月十八日に執り行うと決定、社内委員会を発足し、中井常務をリーダーに社員総出の準備がスタートしました。私の覚悟として社葬までの二週間で考えたこと。それは次のようなことでした。一、社葬は新社長デビューの日であること。二、社外から新社長の人物定めされる日であること。三、出迎える社員一同が一糸乱れぬ姿であること。四、堂々とかつ、先代を偲び、謙虚に新社長としての信条が伝わる挨拶をすべきであること。と定めました。ころ、文箱を見つけました。その文箱には私が全寮生活を送る間に父母から送られてきた数々の手紙の束が納められていました。い手紙を、二〇数年ぶりに改めて目にし、読み返しました。涙があふれてきました。親の心に初めて触れた瞬間とでも言いましょうか。数多くは慈愛に満ち溢れた母からの手紙ですが、あの時を思い出させる父からの手紙を発見し、読み終えると、頭を垂れて感謝の念が深く深く沸き起こりました。して、これからの生きる信条は父から授かったこととして、社葬の挨拶でこの手紙を披露することに決めました。版社のトップが綴る「わが人生の師」(二〇一三年一一月出版)に掲載をしていただきましたので、ここに披露させて頂きます。は生前多くの手紙をもらいました。高校へ入学しました。そこは上下関係に厳しく、人生で初めて親元を離れてのそれは、つらい試練の場とも、同じ釡私は社葬までの二週間、父との思い出探しをしていると高校生の時にはきっと、面倒くさそうに読んだに違いなどうでしょう、瞬く間に目頭が熱くなり、止めどもなくそして、自分の人として、経営者として、子を持つ父とこの手紙はある方の目にとまり、推薦を受けてPHP出今年で、父母が無くなり一四年となりました。父母からそのなかから一通の想い出深い手紙を紹介します。私は中学卒業後、故郷京都を離れ千葉県にある全寮制のの飯を食った生涯の友をつくる場ともなりました。入寮してまもなくのこと、入学のお祝いに買ってもらったセイコーの腕時計を寮でなくしてしまったのです。私は自分の不注意で無くしたというより、同じ寮の人のなかに泥棒がいるという意識で、先生そして親に話をしました。しばらくして父親から一通の手紙が私宛に届きました(以下、父からの手紙抜粋)。「寮内で盗難事故が起こっている由、本当に困った事だと思います。お前自身が腕時計をなくしたことも、お前に2代目代表取締役社長、生田宗宏011

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