101周年記念
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重要部品の面削カッター内製化など、いくつかの経営重要事項について、延ばし延ばしにしている父から、今日こそは返答を得ようと、社長室に向かいました。した。ちょっと待て、後にしろと言って立ち上がり、少し横になりに家に戻ると言ったので、思わず、立ち去ろうとする父の二の腕を掴み、話は終わってない、逃げるんか、おやじと叫んでました。い思い出となりました。異変が起こり、尿が出なくなって緊急入院となりました。た。すでに手遅れと言われ、まさかの展開にうろたえましたが、病室で末期がんの痛みにも耐え恨みや、泣き言を言わず懸命に生きる姿勢、諦めない意思を家族に見せた父に、院長からは家族から余命告知をしてくださいと言われていましたが、私の意志で告知をしないと決めました。ぐ者としての覚悟が出来ました。いつも父には攻撃的に詰め寄る私の姿が、そこにありまあの件は、いつ返事をくれるのですか?……今日こそは、決定してください。その時、父は胃のあたりを押さえて、苦しそうにしました。父のやるせない表情で私を見た眼。その光景はいまでも忘れることなく、後悔溢れる、つらそれから一週間余りたった五月五日、父の体調に急激なストレス起因によるスキルス性胃がんと診断されまし私は父の前で涙は落とすまいと歯を食いしばり、後を継そして一か月後の六月四日午前四時、母、姉、私達兄弟に見守られ静かに息を引き取りました。奇しくも父が道を求めた、道経一体思想を現した広池千九郎と同じ命日となりました。ただ、ただ救いだったことは私の長男が五月一日に生まれたこと。父が入院の日の五日に、自宅に戻った孫である長男の暁泰を抱いてくれて、庭に揚げた鯉のぼりの前で、よかったと一言、発してくれたことでした。病室で父を見守り見送ったひと月は苦しく、不安で、孤独で、食も喉を通らず八キロも体重を落とし、昨日までの自信にあふれ、父を踏み倒してまで社長になると息巻いていた私の存在は、父が健在で後ろ盾あってこそと、思い知らされました。病室から自宅への移送手配を終えた後、午前八時に会社に向かい社員全員を集めて、社長の死を告げました。古参の社員数名には二日前、危篤となった時に知らせ、最後の別れをしてもらっていましたが、他の社員には検査入院中としていましたので、その衝撃と悲しみは計り知れませんでした。震える手を固く握りしめ、不安でぶるぶると震える足に力を込めて、第一声を振り絞りました。社長が亡くなった今日、只今から新社長として社員皆さんの先頭に立ちます。しかし、今は全く自信もありません。皆さんからの信用も信頼もないこともよく分かっています。皆さんは偉大010

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