生田産機工業「株」創業101周年に寄せて。
私こと、昭和43年に会津若松製作所に着任しました。当時の三菱金属への入社が半年遅れた為の配属でした。
その後、約50年の間、設備導入、立ち上げ一筋の人生で、第一次から第七次まで近代化起業をやってきました。
戊辰戦争ではアームストロング砲で,白虎隊の鶴ヶ城を攻めた佐賀藩士の末裔が
100年後にまた押し掛けたわけです。
学生時代に、旧八幡製鉄所を見学したことのある身には、若松製作所は全くの町工場で、この時から、アンチ三菱の反骨が頭をもたげて、今に至ってます。
しかし、身の程知らずに、この町工場を世界の伸銅工場にして見せると漠然と感じてました。
二年後に第一次が始まりました。業界初の20段圧延機の導入です。何故か、私が担当になり、4名のオペレーターを預けられ、教育と稼働を任されました。
空手部の人間関係をそのまま持ち込んで、徹底的に準備しました。
操作デスクの実物大模型を作り、何度も、圧延作業のシミレーションをやり、ラークの圧延理論の勉強もした、後日談ではオペの皆は、寝室の天井やトイレの壁に操作デスクの図面を張り勉強したそうです。
試運転当日は、紅白の幔幕が張り巡らされて、社長以下の歴々が見守る中、くじ引きで、当たった私が運転することになりました。
この圧延機は、板が破断することが大きな欠点です。小径ワークロールが原因で、板のコブルをうまく呑み込めないためです。
自分の設定したパススケジュールで、いきなり最高速度まで、ぶっ飛ばしました。破断させて、度肝を抜きたいてと思ったわけです。
その後の本稼働で、破断が頻発しても、オペがあまり責められないように。
そばで、日商岩井の曽我さんが、驚いて、「大坪さん何してんだ」と叫びました。
センジミア20段圧延機を、鉄鋼、ステンレス、業界に、200台以上売り込んだ、レジェンドです。幸い破断はしなくて、以後彼とは、義兄弟の盃をかわしました。
誠に、この圧延機はよく働いてくれました。若造の私の意見を、現場の作業長クラスも聞いてくれるようにどんどん変わりました。
さて、そんな中、昭和60年「1985年」資本金の三倍を超える大設備投資、第三次近代化が始まりました。
生産技術課長の私は、社運を賭けたこの起業に、スタッフ一同と血判を押した連判状を作って臨みました。
時代遅れの話ですが、今でいう、パワハラが作業着で、ヘルメットを被っているような私でしたが、第一次同様、皆、必死でついてきてくれました。
振り返ってみれば、この時の生田産機さんの面削機トラブルが人生最大の試練でした。最新の設備で、伸銅業界に後発ながら、どんどんその地位を確保しつつあった、日鉱倉見工場への納入実績を見込んで、セミドライ、両面面削機を発注しました。
N社の実績をうのみにした、我々も不勉強でした。
ウェットで下面切削の旧設備にもそれなりの長所があったわけです。
生田さんの先代社長と随分やり取りしました。
何せ、面削起因の不良が1000トン近く発生しましたから。しかし、最後まで、きちんと責任をもって、対処してもらって、今日があるわけです。
色々なことを生田さんともども勉強しました。後々の両社にとって、大切な教訓でた。
それから、今日まで、台湾の面削機、錫メッキライン、KM社の面削ライン、HALCOA社の面削機、カッター研磨機、などなど、両社の関係は続いています。
苦労した第三次近代化でしたが、完成後、見学に来られた日鉱倉見の関根さん「倉見を作った人」が「大坪さん、肝心なとこによく金をかけたね」と言ってくれたのは
何よりの感激でした。
起業はメーカー側か導入側かどちらかが、十分設備を理解していれば大丈夫です。両方が不十分の理解で進めると、問題が、発生します。
生田さんの今後は、メーカー側が理解、指導するケースが、特に後進国ではほとんどでしょう。理解の意味は、ノリッジでは不十分です。インテリジェンスであるべきです。
設計技術者は実際その設備を運転できて、設計値の意味を、先輩からの引継ぎでなく肌で理解しておくことが肝要です。
例えば、100という設計値に対して、なぜ、90ではないのか、110ではどうなのかを理解しておけば、耳学問だけの、購入者側の意地悪な質問、要求にも自信を持って、答えることができるはずです。
生田産機さんを考えるとき、私はいつも毛利家三本の矢の古事を思い浮かべます。社長、技術、営業の三兄弟が、実にバランスよく、一人一人は中には、頼りないような
人がいても、血は水よりも濃くシカとまとまっていて、加えて、大番頭の中井氏が脇を固めて、結構ですね。これからも、京都人のものつくり、応援してます。
私的な話になり恐縮ですが101周年めでたさに免じて、笑納ください!