IKUTAの新しい100年を祝う
企業は人と言います。さらに言うなら、人とは社長であり、会社は社長で決まります。これは私が半世紀弱の金融機関人生で何度も確認させられた絶対的な真実なのであります。したがって、私にとって、生田産機とは生田泰宏社長であり、以下は生田産機と生田泰宏さんを「IKUTA」として混然と語ることになります。
さて、IKUTAは、典型的な京都企業だと思います。ここで言う京都企業とは「伝統と革新を両立させる」という離れ業を平然とこなす会社のことであり、ひらたく言えば、「変わった会社」であります。この「変わった会社」こそが混とんとした時代を切り開く会社だと思います。思えば、生田泰宏さんは、最初のお出会いから本当に「変わった社長」でしたし、その印象はその後現在に至るまで見事に維持されており、だからこそIKUTAは正真正銘の京都企業だと思います。
そもそも、この「IKUTAの履歴書」をただいま手に取って読まれている皆様は、すでに、100周年ではなく101周年を祝うという点からしてIKUTAらしさを感じていらっしゃるはずであり、「変わった会社」、「変わった社長」という私の感覚に、多くの方々が心の深い部分で共感いただけているものと確信します。
私が最初にIKUTAのお話を聞いたのは今から15年くらい前のことだったと思います。今から思えば、突然の社長就任から深刻な業績悪化に見舞われ、モラロジーと出会われ、業績の回復に成功されていたころのことでした。その初対面の席で聞いたお話は面削機械の冶具のお話でした。ご父君の時代から銅を削る冶具は大手メーカーの汎用品を使っていたところを、新社長が銅の面削専用冶具を独自開発することを決断され、結果的に機械の加工水準を飛躍的に向上させたという見事なサクセスストーリーでした。
その時の社長の話ぶりと内容に心底感激した私は素直に「なぜそんなアイデアが生まれたのですか?」と聞きました。その答えが素晴らしかった。社長、曰く、「私は文系で仕事のことがよく分からないので、専用冶具の開発がどれほど無謀なことかも分からず、平気でそのような決断をできたんでしょうなあ」。これには初対面の私は二の句を継ぐことができませんでした。今はこう思います。あの返答の半分は生田さんの照れ隠しであったと、そしてもう半分はイノベーターの真実だと。だからこそ、その後のIKUTAの躍進は、中国進出、東アジアから中東への進出、風力発電から実験装置の開発、食品機械分野からクラウドデータ管理など、枚挙の暇もないほどに続きます。だから思います、ここから始まるIKUTAの新しい100年が楽しみだと。